続けることの大切さ

            

私は中学(軟式)、高校(硬式)とテニス部に所属していました(高校は陸上部との掛持ち)。

 

なので、テニスを見るのが大好きです(毎月の釣りとトライアスロンで時間がなくなるので、自分でテニスをすることは現在一切していません)。

 

ウィンブルドンなど四大大会では5セットマッチですから、試合がもつれにもつれると、数時間にも及ぶ死闘となることもしばしばです。

 

テニスの試合で面白いのは、実力が伯仲する選手同士が戦う場合、ある時間帯はA選手が試合を支配するのに、ある時間帯はB選手が試合を支配し、それが交互に訪れることです。

 

A選手が試合を支配している間、B選手はひたすら耐え忍び、エネルギーの流れが再度自分に向かうのを待つほかありません。


中国はベンチャー企業のようなもの?

            

よく考えてみますと、中国という国は1949年に建国したものの、台湾に敗走した国民党軍との戦いで共産党も疲労困憊、しかしその翌年1950年から1953年まで朝鮮戦争が始まり、米韓軍との激しい戦いを経験しました。

 

なので、自国の憲法制定すら後回しになり、それがようやくできたのが1954年です(建国後5年も経ってようやく!ちなみにその憲法は1975年、1978年、1982年に改正ではなく、作り替えました。現在有効な憲法は四次改正を経た82年憲法です)。

 

その後、1958年の大躍進運動での莫大な餓死者を記録したり(毛沢東主席が地方に視察に来たときだけ、稲穂の下に机を置いて子供をそこに圓某欧せ、「ほら、毛主席、わが地域の稲穂は隆々として、子供が乗っても折れませぬ」とか加計学園もビックリの大嘘をつき続けたので、毛主席が地方の惨状を最初から周知していたわけではないかもしれませんが)、中共中央も失敗だと認める1966年から1976年までの文化大革命の大混乱をやったりしていたので、文化大革命が終了する1976年までは、ある意味で国家の体をなしていなかったと言っても過言ではないでしょう。


東京とつながろう

            

昨日のトライアスロンで岡山県の湯原温泉の旅館に宿泊しました。

 

とても行き届いたサービスで、素晴らしい宿泊だったのですが、聞くところによると比較的多忙なのは土日だけで、団体さんでもない限り(2、3人のお客さんだと)、平日は旅館を閉めてしまうのだそうです。

 

その理由はスタッフを出勤させたり、電気をつけて、お風呂を沸かしたりするコストが2、3人のお客さんから得られる収益では損益分岐点を超えない(要するに儲からない)ことにあるわけです。


全か無かの法則の誤り

            

日本人は誰かと何かをやろうとする際に、好きか嫌いかを過度に基準とする習癖があると思います。

 

あたかも、好きが一定レベルを超えると何でもOK、嫌いが一定レベルを超えると何でもNOという、全か無かの法則のようです。

 

もちろん、それは人間共通の性であって、世界の誰しもそういう傾向はあるのでしょうが、ビジネスにおいて好きか嫌いだけで取引をするかしないかを言っていれば、儲かるお話も儲からないことになるでしょう。

 

そこは合理的経済人(homo ecomomicus)ではありませんが、好き嫌いだけでなく、取引相手として合理的か否か(儲かるかどうか)を基準に物事を考えなければなりません。

 

まして、国家対国家の外交場面では、好き嫌いを言うのではなく、相手国とどう付き合うのが自国の、それも短期的観点ではなく、中長期的視点に立脚して、有利となるか否かの視座が欠かせないでしょう


専門家としての引き際

            

日本企業であるクライアントから自社子会社の中国企業を含めた中国企業のDD(Due Diligence。法務調査や税務調査)ですとか内部コンプライアンスチェックの依頼を受ける場合、私自身ができる限り調査に赴くようにしています。

 

そう答えると、クライアントや知り合いの弁護士から「あなたは(ボスなのに)自分でDDに行くのですか?」と驚かれることがあります。

 

しかし、私からすれば、クライアントは別として、驚く弁護士がいるほうに驚いてしまいます。

 

というのは、過去に何人も現場に行かなくなり、自分で意見書や契約書を作成しなくなり、知識が古くなり、話がクライアントに役立たなくなり、昔話を繰り返すだけの弁護士その他の専門家を見てきたからです。


中国の強化される国家監視体制

            

2014年10月の四中全会(中国共産党第18期中央委員会第4回全体会議)で依法治国(法による国家統治)の政策が発表され、テロ対策と国家安全の法治化が国家目標とされることになりました。

 

その結果、次のような法律群が次々に整備されてきています。


中国の憲法前文を読んでみよう

            

中国について、私を含む色々な人が発言をしています。

 

そして、それを熱心に読んでくださる皆さんがいらっしゃいます。

 

しかし、発言をする側にも発言を聞く側にも、意外なことに中国の憲法前文を読んだことがある方は決して多くないのではないでしょうか?(そう言えば、日本国憲法前文を熱心に読んだことがある国民も決して高い比率ではないと思われますから、まして外国の憲法前文となれば、なおさらですよね)


中国の社会主義システムが勝利するかも?

            

日本を含む西欧諸国が信奉する民主主義システムは、「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」というウィンストン・チャーチルの言葉に代表されるとおり、他の政治形態との比較において相対的にチャンピオンだと考えられてきました。

 

確かに、個々の国民の自己決定権を保障し、これを団体的文脈で保障するための自己統治システムとしての普通選挙を通じて全国民の代表である選良を選出し、その集合体である国会が作る法律によらなければ、国民の権利を制約し、義務を課すことはできないという自由民主主義(立憲民主主義)の考え方は、一見して隙のないすばらしいものであるような錯覚を覚えさせます。


中国は人権侵害一色か?

            

先般ノーベル平和賞受賞者である劉暁波氏が死去しました。

 

日本を含む西欧諸国は非暴力を貫徹しながら中共中央の一党独裁を批判し、08憲章により中国における立憲主義(中共中央の権限行使もまた憲法による制約を受ける)の実現を提唱した彼を国家分裂扇動罪で有罪とし、収監中に患った重病について適切な時期に適切な治療を受けさせたのかについて重大な疑義がある、という論調です。

 

確かに西洋型民主主義及びこれを支える表現の自由を普遍的価値観とする日本を含む西欧諸国からすれば、彼に対する中共中央の措置はこの普遍的価値観を侵害する許し難い所業だということになります。


中国という国の基本発想とは?(2)

            

4、「事前にある程度計画してから、走り出し、その後現実に応じてもとの計画をこまめに修正する」というプラグマティックな哲学

 

日本人とドイツ人は事前に徹底して緻密な計画を立て、時に現実を計画のほうに無理に合わせようとする不合理をやりかねない二大・頭カチコチ民族です。ものづくりが得意な民族の欠点ですね。

 

その対極がイタリア人、スペイン人、ポルトガル人、フランス人といったラテン民族で、何も計画せずに走り出し、色々なところに頭をぶつけながらひたすら推進するという感性だけで生きる民族です(ルノーなど世界的メーカーを抱えるフランス人だけは、ある程度合理的方向に修正されていますが)。

 

折衷説がイギリス人やアメリカ人で、「事前にある程度計画してから、走り出し、その後現実に応じてもとの計画をこまめに修正する」というプラグマティック(実用主義的)哲学を本質とします。

 

なので、全人代が5年に一度公表する5ヵ年計画や中共中央の三中全会の経済政策などはその後の政策方向性をうかがううえでとても重要ですが、途中で現実に合わせて修正されることがあります。中国のこの姿勢を非難するならば、イギリスやアメリカも同時に非難しろ、と中共中央は思うでしょうね。私はラテン民族や日本・ドイツ型硬直的アプローチよりも中華民族の現在のアプローチのほうが合理的であると思います。

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